敵は本能寺にありの意味とは?誰が言った言葉なの?秀吉?家康?
「敵は本能寺にあり!」
よく時代劇やドラマで聞くことがありますよね。
本能寺と言えば織田信長が有名ですが、
ことわざにした場合の、
「敵は本能寺にあり」
はどういう意味で使うのでしょうか。
また、言われたのは信長かと思いますが、
誰が言った言葉なのでしょうか。
小学校の歴史の時間に絶対やったはずですが、
「あれ?誰だっけ?」
「秀吉?家康?明智光秀?」
となってしまっている人もいるのではないでしょうか。
戦国時代って有名な人が多すぎて誰だか分かんなくなっちゃいますよね~。
と、いうことで!
今回はこのことわざの意味や使い方をまとめてみました。
誰が言った言葉なのかもついでにチェックしておきましょう!
敵は本能寺にありの意味
まずは、ことざわとしての意味をみてみましょう。
- 「敵は本能寺にあり」の意味
真の目的・目標は別なところにある、ということのたとえ。
本来の目的や目標などを隠して、
誰かを騙したりあざむいたりするときに使います。
戦国時代、明智光秀が備中の毛利を攻めると称して出陣した後に途中で引き返して、
「敵は本能寺にあり!」
と声高に叫び、信長が宿泊していた本能寺を攻めたという故事が元になっています。
時代背景をもう少し詳しく
明智光秀が織田信長を裏切って討ち取り、三日天下となったというのは有名な話ですが、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
時代背景についてもう少し詳しくみてみましょう。
・・・・・・・
元々足利義昭に仕えていた明智光秀。
織田信長に才能を見出されて織田家の重臣に迎え入れられます。
光秀は信長と共に摂津国に出陣し、比叡山焼き討ちで中心実行部隊として活躍し、さらに高屋城の戦いや長篠の戦いにも参戦します。
しかし、
羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられ、備中に出陣するために早朝に出発した光秀は、道中である亀山城内か柴野付近で、重臣達に信長討伐の意を告げたとされています。
そして信長の宿泊する京都・本能寺を襲撃し、寺に火を放ち、結果、信長を自殺に追い込みました。
実はなぜ裏切ったのかは明確には去れていません。
理由としては諸説あり、
はたまた、
というのもあります。
しかし、本能寺の変の直前に信長に感謝の手紙を書いていたという話や、床の間に信長の書を掛けて尊敬の意を表していたという話も有名で、決して仲は悪くなかったのではないか、という説もあります。
なので、実は信長を裏切ったのは違う人物であり、光秀は濡れ衣を着せられただけだという説を唱える歴史研究者の方も多くいます。
確かに本能寺の変が起きてから、すぐに光秀は命を落としてしまいますし、その後にも関係者は一気に亡くなってしまうので、うやむやになってしまっている感はありますよね。
その説の場合は、黒幕は秀吉説や徳川家康説、天皇説などさまざまです。
信長の遺体が見つかっていないというのも歴史ミステリー感を深めている要因のひとつですね。
よくファンタジー漫画や小説などでも、現代からタイムスリップして信長と入れ替わったり、信長が現代に来たらどうなるみたいな話もみかけますよね。
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本能寺の場所について
火を点けられてしまった本能寺ですが、
今でも残っているのでしょうか。
実は本能寺という寺院は現在もあり、法華宗本門流の大本山として京都府京都市中京区に建っています。
しかし、織田信長が自害し、焼失したと言われている本能寺は現在の住所ではなく、堀川四条の近くにあったようで、現在では「本能寺跡」として碑石が立っています。
本能寺焼け跡からは、焼けた瓦が大量に発掘されたようです。
当時の本能寺の大きさや豪華さが伺えますね。
ちなみに新しい本能寺を建設したのは秀吉であり、
そのときに場所も移転されたようですね。
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まとめ
今回は「敵は本能寺にあり」の意味や使い方について紹介しました。
「真の目的は別なところにある!」
といった意味で「敵は本能寺にあり」と使われることがあります。
あまり私生活で使う場面はないかもしれませんね。
(^^;
また、ちゃんと調べてみると、本能寺の変についても未だに謎が多い内容となっていました。
新しい文献や手紙の発見、現代の技術によって当時の暮らしなどが明らかになる中で、新説が浮かび上がることも多くあります。
もしかしたら数年後には光秀ではない人物が犯人として主流になっているかもしれませんね。
今回は以上です。
ご参考になりましたら幸いです。
(*゚ー゚*)ノ
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